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『ファインバブル(水質技術革命)が養豚排せつ物処理の世界を変…

微細な気泡(ファインバブル:Fine Babble)が、私たちの食糧生産を助けるより持続可能な技術として認知されつつあります。ここでは初歩的な実験室実験における、養豚排せつ物(豚尿)の効果的な処理実績について、報告をさせていただきます。

 

 

“ファインバブル”(微細な気泡)という言葉は、最近多くの人々が耳にするようになってきたと、筆者は認識しています。海の回遊魚である「はまち」の養殖や、内陸の温泉地域での「トラフグ」の養殖、さらに「エビ」の養殖についても、内陸の河川流域で養殖する技術も確立されています。加えて、野菜(葉物や苺など)についても、屋内で栽培する水耕栽培が盛んに行われるようになってきています。私たちが必要とするこれら食糧の栽培・育成方法が、大きく変貌を遂げようとしています。これらを可能にしたのは、栽培・育成に欠かせない水の革命、すなわち“ファインバブル”をより多く水中に送り込む技術の進歩です。つまり、必要とする「水質の技術革命」がなしえたものと、筆者は見ています。“ファインバブル”の登場により、水中の酸素濃度を従来の1.5倍も高めることに成功した。この技術革命により、「動植物の育成・栽培手法に革命」が起こったと、私は考えています。

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「環境立国・日本」を築いた人たち

私は、日本における環境汚染物質の測定分析を生業として50年、特に測定分析データの信頼性確保に向け、測定分析ラボ(試験所)の国際標準規格であるISO/IEC 17025の認定資格取得を、積極的に日本全国の環境測定分析事業者に働きかけてきました。そうした甲斐もあってか、日本のラボにおける測定分析データの信頼性向上は、現在の(一般社団法人)日本環境測定分析協会の努力の甲斐もあって、改善されてきていると考えます。

 

 

私は1995〜1999年の4年間、社団法人(当時、現在は一般社団法人)日本環境測定分析協会の会長を務めました。この間、特に米国の環境測定分析ラボラトリーにおけるデータ精度管理の実態(LIMS:ラボラトリー・インフォメーション・マネジメント・システム)について、現地調査を行った後、会長在任中に多くの事業経営者に向けて米国の実情を紹介し、優れた仕組みシステムを積極的に取り入れるよう、働きかけてきた。したがって、ISO/IEC 17025機関として登録している事業者も増えてきているのが実態です。

 

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日本の「環境防衛隊」の組織化に期待

1972(昭和47)年に、「国連人間環境会議」がスウェーデンのストックホルムで開催されました。私の会社、環境コンサルタントを生業とする「グリーンブルー」は、この同じ年に産声を上げています。また、この年はローマクラブが「成長の限界」を明らかにした年でもあります。18世紀に産業革命が始まり、そして、近代兵器による戦いとなった第一次世界大戦は、1914(大正3)年から1918(大正7)年の5年間にわたって行われ、多くの人々が亡くなりました。大量破壊兵器が造られたことによるものです。その後の第二次世界大戦では、1939(昭和14)年から1945(昭和20)年の6年間にわたって戦いが続けられました。第一次世界大戦とは比較にならないほどの、大勢の人々が亡くなりました。人類の夢をかなえる希望の光として見られていた科学技術が、人々の命と環境を破壊する結果をもたらしました。戦争は、現在でもあちこちで起きており、多くの尊い命の犠牲と、築いた生活基盤の破壊をもたらしています。戦争は最大の環境破壊であることは、誰もが認めるところです。自然環境は、私たち人類にとっての恵みであり、この破壊が許されないことは誰もが理解しています。しかし残念ながら、日々どこかで戦争が行われ、破壊が進められています。科学技術は、私たちの生活を豊かにするものと期待されていましたが、むしろ大規模な環境破壊をもたらしています。

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シンガポールが抱える越境大気汚染問題

1.はじめに

シンガポールは、本来はマレー半島南部ならびにシンガポールおよびインドネシア(スマトラ島)で構成されていた港市国家、ジョホール王国(Johor Sultanate)の一部であった(1511〜1819年)。1819年に英国人トーマス・ラッフルが王国の許可を得て東インド会社の交易所をシンガポールに設立、1824年には、英国はシンガポールの主権を取得し海峡植民地とした。第二次大戦後、シンガポールは英国から独立し、1963年にマレーシアの一州として参加したが、1965年にマレーシア政府とリ・クワンユーの政策との確執(政策の不一致)により、マレーシアから追放された後、シンガポール共和国を建国した。

 

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「Facebookは、政治や政策の話もありだと考えます」

以下の作文は、日本最大のNGO≒“ロータリークラブ”を、サブナショナルと位置付け、私の思いを作文したものです。

ファイスブックには、政治や政策に絡む問題について、記述される方はまれですね。美味しそうな食べ物や楽しい話題、そして、自分の現在いる場所の開示、さらに趣味について、人によっては自分の行っている事業のことなどを紹介したりしています。しかし何故か、主義主張を記述される方は少ないようです。触れたくないのは分かりますが、SNS(ソーシャルネットワークシステム)の発達は、人の主義主張ができる効果的なサイトとして活かされるべきだと私は考えますが、こうした考え方を受け入れる人は少ないのでしょうね。

一方で、SNSの一つであるYou Tubeは、露骨に主義主張のやり取りを映像化、あるいはインパクトの強い文字配信が積極的に行われています。NHKニュースや、朝日放送の報道ステーションでは伝えてくれない情報(ただし、どこまで信じられるか、自分で検証が必要なケースも考えられる)などがあり、ついぞ見入ってしまうものもあります。個人の主義主張には、多様性を受け入れる必要性が前提になければなりません。好き嫌いで判断したり、“ロジックとして納得できるから、その考えにも私は賛成である”と思ったり、“特定の個人や国家に対して偏見を持って見ているので私は反対”、といったように、主義主張に対する反応には当然、多様性があって当たり前だと私は考えています。現在のFacebookは、そんなに肩肘張らないで、“さあ、楽しくやろうぜ”と言った点から、広く受け入れられているのかも知れません。

ロータリークラブのコミュニケーション

かつて、私がロータリークラブに所属していた頃、ゾーンや地区、さらに個別クラブ間を横断したコミュニケーションツールとして、“ロータリーインターネット”が立ち上がったことがありました。ロータリーインターナショナル(RI)の方針に対する賛否や、それぞれの言い分が吐露されたり、「ロータリー憲章」の解釈を巡って議論が炎上したり、また個別クラブのあり方や存立に関する議論などが、結構頻繁に、かつ熱いやり取りがあった時代がありました。この時代には会費がありましたので、総会も開かれています。

それが、Facebookの登場により、全く趣の変わった情報交換が展開されるようになりました。言葉でやり取りするより、映像の方が何倍も伝えたいことが明確にできるし、それまでの文字による情報交換から、スムーズに映像(静止画のみならず最近は動画も増えています)によるコミュニケーションに移って行ったというのが実際でしょうか。Facebookへの移行は当然の成り行きと言うのでしょうか。多くの人がスムーズに受け入れた結果の、コミュニケーションスタイルとなったようです。

私も、ロータリアンの時代に、“ロータリーは政治や政策については語らない。そうしたボランタリー組織である”と教えられた記憶があります。何も言わず行動している姿を見せて、これが「ロータリー精神」だと言った形のメッセージをよく目にしました。でも、ボランタリーな活動そのものを効果的に進められるには、やはり政治や政策との太い関わりの中で成立していることを、皆さんは語らない。学校の生徒を動かすには、教育委員会との関わりは欠かせません。社会の中の諸活動には、それぞれに関係する行政組織との良好な関係構築は不可欠です。

ロータリーの開発途上国支援

開発途上国の支援についても同様です。相手国政府を無視した支援は考えられません。こうした関わりの中で、何故か大きな矛盾や課題について、表に出すことを避けてきたように、私は思っています。より多くの人に現実を知ってもらう。その意味で、ロータリークラブは、沢山の問題事例に関する情報を持っている組織であると考えています。言わば、「情報の宝の山」を抱えています。「情報の宝の山」としたのは、ボランティア活動における様々な問題点や課題につきあった経験が豊富にあるということ。これが開示されれば、問題解決のための資産に生まれ変わると見たからです。

例えば開発途上国で、飲み水確保のために、未就学児童が片道2時間も掛けて水汲みをしている。こうした子供達に教育の機会をと考え、井戸掘りの支援事業を行ったとします。めでたく井戸を掘り当て、未就学児童の過酷な水汲み労働は取り除くことができた。さて、この子はすぐさま学校に通い、テキストを前に勉強に付くことができたのでしょうか。

ロータリーのプロパガンダ誌には、住民の喜ぶ写真が紹介され、これが支援の喜びと言った姿を良く目にしました。しかしその後、子供たちはどうなったのか、フォローした情報を目にすることは少なかったように思います。水汲みの重労働はなくなったが、学校には行けずに相変わらず家事の手伝いで1日を過ごしているかも知れない。こうした支援は、課題の一断片を捉え、その断片の解決が支援目的となっているケースが多いようです。

開発途上国の多くは、個別の問題処理では根本的な課題解決には向かいません。これらは政府レベルで、行政単位レベルで、当該国の実態を把握する必要があります。村やコミュニティーへの支援だけでは、まさに課題の断片の処理に過ぎません。そういう意味で、開発途上国支援は、国対国、地方行政対地方行政、そして他のNGOやロータリークラブが関与する形である必要があります。問題の根本に関わる必要があり、そのためには支援プロジェクト単位で組織化が不可欠です。

しっかりしたポリオ支援プログラムと中途半端な支援

ロータリーのポリオ支援が、その良いケースでしょう。「ポリオの撲滅運動」は、国連のWHO(世界保健機関)やUNISEF(国際連合児童基金)、米国疾病予防管理センター(CDC)、そしてロータリーが関わっています。綿密に練られた計画に基づき、開発途上国に入って、関係者(医者や看護師、多くのボランティア)によって運営されます。ポリオのワクチンは温度管理が重要で、そのための施設が必要となります。しっかりした建物の中での管理か、また戸外のテントでの管理か、その場合は仮設電源が必要となります。こうしたプロジェクトを成功させるために、実に多くの人々が関与し、そしてお金が動きます。ロータリアンは医者であろう協力者であろうと、当然ボランティアです。ポリオの撲滅運動に歴史があり、プログラムもしっかりしている。しかし、他のプロジェクトはどうでしょうか。事前調査やフィージビリティスタディーなど、推進プログラムがあいまいであることが多い。したがって、支援の在り方も前述した通り断片的になってしまい、根本的な課題に触れずじまいで、中途半端な支援に終わってしまうのが多いのではないでしょうか。こうした、問題点や課題を表に出し、支援の在り方について、その実態をより多くの人々に知っていただく必要があると思います。

開発途上国支援にはプロフェッショナルが必要

日本人と外国人、先ず、考え方が根本的に異なることを前提に考える必要があります。私たちの価値観で物を見ると、見誤ることが多々あります。したがって、開発途上国に向けた支援あるいは援助は、やはりその道のプロフェッショナルが必要だと考えます。先ず、ハードネゴシエーションは当たり前ですし、カウンターパートが責任を持って受け入れるには、それなりに相手国の政府や地方政府とのコネクションが必要不可欠だと考えます。まれにその支援が、すでに日本から送り込まれているJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊と、コラボレーションできた話も聞いたことがあります。

ロータリー国際支援は、ポリオ支援を除いて、クラブ単位で進められる海外支援テーマを、長期に継続することをしない暗黙の了解があるようです。つまり、限定的(断片的)なテーマを対象に単年度で終わり、その代りに幅広く多くの断片的テーマの実績を作ろうとしているのが実際です。日本の青年海外協力隊とのコラボレーションで、思いのほか上手く行った支援テーマがあったとしても、青年海外協力隊の実態を知ろうとしないのがロータリアンです。例え知っても、それ以上のことはロータリーの海外支援コンセプトと異なるからか、日本国政府が送り出している青年海外協力隊については、深く知ろうとする動きは見られません。国家が進めている財産とのコラボレーションを積極的に考えようとしないロータリーは、おのずと視野は広がるとは思われません。青年海外協力隊は日本のODAの一つですが、協力隊員らの多くは純真に開発途上国の支援をしたい、という思いでその世界に飛び込んでいます。しかし、現地に派遣され、その現地条件の劣悪さ、あるいはカウンターパートの理解不足や資金的な不足等々により、自分の任務が遂行できなくとも、彼らの意見(提案や新たな具申、予算要求等)や苦情をJICAにフィードバックもできないのが実態のようです。ロータリークラブと出会って、彼らのミッションが良好に続けられるケースはごくまれですが、こうした場に遭遇する青年海外協力隊員は幸せです。

かつてのODAと箱物援助

日本は、かつて米国に次ぐ世界第2位のODA大国として、多額の援助を進めてきた実績がありますが、いずれも「箱物」(橋や道路、あるいは空港や発電所等)と言われるものの支援が多く、施設の完成後はその維持費の高さに、多くの施設は継続使用されず、初期目的を果たさないままに朽ちてしまったものもあるようです。皆さん、ご存知でしたか、初期の北京空港は日本のODAでできたものです。中国政府は、この空港の株式を上海証券取引所に上場すると言う、ODA始まって以来の珍事が発生。さらに新空港開港に当たって、本施設が日本のODAで実現できたものと言った記録が、施設のどこにも示されなかったので、日本の外務省関係者と、中国政府との厳しいやり取りがあったようです。

それはともかく、日本が高度経済成長の絶頂期までは、少なくとも潤沢なODA予算外が計上され、前述した箱物をせっせと作ってきたのが実態です。しかも、これらを請け負うコンサルタントの仲間内では、予算の半分はアンダーザテーブル(under-the-table)で消えるもので、これがうまくやれないコンサルタント会社は仕事ができなとも言われていた時代がありました。こうした問題は、建設コンサルタントのみならずAMDA(国境なき医師団)が絡む案件でもあったようで、日本のODAが如何に主体性のない支援を行っていたか、ご理解いただけると思います。プロジェクトの成功のための必要悪と言うのは、あまりにも国民をばかにしたやり方であり、あきれるばかりです。

「Japan as No.1」の宴が終わり、ODA予算は縮小され、高度成長期のような出来事は改善されてきたと言われていますが、せっかく施設整備を行い、その施設の運用技術を現地技術者に移転しても、そのスキルが民間会社に高く売れるので転職してしまうと言ったケースは、決して「まれ」な現象ではありません。日本の高度成長期までの開発途上国への援助は、前述したような状況があったようですが、ODA資金は言うまでもなく国民の税金です。以上のような状況が皆さんに公開されていたとした場合、皆さんは、どのような行動を起こすでしょうか。物事には表と裏がある、ある程度仕方がないと思われるでしょうか。

戦後、日本の繁栄は、同じように海外からの資金や技術援助で実現されたものです。日本は1970年代初頭には、海外からの借金を終え、その後ドナー(援助)国に変わりました。援助を受けて繁栄を得た日本ですから、今度は同じように開発途上国の繁栄を支援する。これは当然のことだと思いますし、それができている日本を誇りに思います。しかし、どうでしょうか。そのように多額の税金を海外援助に向け、相手国の繁栄を期待した。でも、そうした国々から、日本への感謝の声は私達に届いているでしょうか。私はそうは思われません。お隣り韓国、そして中国には日本から多額に資金援助のみならず、技術移転も行われてきました。そして、今日の繁栄へと結びついていると、そう私は理解しています。それが過去の戦争を持ち出し、戦時における理不尽な行為に対して謝れと、何度も突き付けられる実態は、日本のODAが、日本国家のために活かされなかったことの証のように、私は思います。故に、ボランタリーであろうと、国の支援ならなおさらです。支援行為で交わされる実態、かっこよく見える表ではない、裏の事実もそれなりに公開してしかるべきだと、私は考えます。コインの表を伝える人は、華々しくその成果を語れますが、実は、その裏にはなかなか表現し辛い事象があった。こうしたコインの裏も知っておく必要があると、私は考えます。皆さん、どう思われますか。

青年海外協力隊と次代の人材育成について

青年海外協力隊による支援は、今も続けられています。残念ながら、彼らの援助スタイルは今日も変わっていません。自らのスキル(個人属性に依存するのが一般的)を精一杯使って、開発途上国に役立ちたい。心根は見上げたものとして、彼らにエールを送りたい。しかし、日本の外務省ならびにその下部組織であるJICAは、何かが分かっていない。それは、彼らを人材として育成するプログラムを用意していないことであると、私は見ています。

最も教えてもらいたい点は、マネジメントスキルです。つまり、「人」「物」「金」「情報」(技術)、「環境」の経営資源をどう使うと、自分に与えられたミッションが実現できるか。事業の計画、これに経営資源を配分、支援プロジェクトの進行途中で修正の必要があれば、必要に応じる。一人の青年海外協力隊員が事業を成すためのスキル(≒「マネジメントスキル」)を身に着けさせることです。従来の箱物援助に掛かる資金に比べれば安いものです。毎年の青年海外協力隊員の合格者数が、仮に2000人とします。同隊員を国際ビジネスマンに育てるために1億円を使うと、合計2000億円。2000人の国際人を育てると考えたら、決して高くはないと考えます。

日本政府が、世界で活躍する時、彼らがどのようにふるまうかで、日本のポジションが決まる。国連の常任理事国入りは、人材の育成あるのみだと考えます。徹底した国際ビジネスマン養成の場が、青年海外協力隊員に用意される。そうなると日本が変われると考えます。

現実はどうでしょうか、多くの青年海外協力隊員が帰国して、一般企業に就職できない理由の一つに、「浦島太郎現象」があります。経済社会と隔絶された環境に長期間放置されれば、経済観念は生まれないし、帰国しても一般社会になじめないのは当然の帰結と考えます。

いや、いかなる劣悪な環境でも衛星を使って通信はできます。中央とのコミュケーションは勿論、横の交流も容易です。ネット社会の青年海外協力隊員を、次代を担う国家の人材資源と考えるのであれば、これまでのプログラムの在り方は、間違っているように考えます。国に応じた優れた実践向けのODAコンサルタントを育てると言う視点もありだと考えます。マネジメントの勉強と語学(英語と現地語はネイティブスピーカークラスに)は必須ですし、国を代表しているというマインド教育も厳しく植え付けることが欠かせないと考えます。

以上のことが行われれば、ロータリークラブのような国際NGOが進めるボランタリーなプログラムもリードできますし、そうすることで、日本国ならびに日本人に対する多くのファン国や、人々を生み出すことが可能だと考えます。言うなれば、近い将来に開発途上国に向けた、武器を持たない平和部隊の構築と編成が可能となります。

青年海外協力隊には、日本のこの先の生き方を決める存在になってほしいものです。

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ゼロ戦からMRJへ

零戦からMRJへ:https://www.youtube.com/watch?v=6m2R_4xm4jw
日本の誇る零式艦上戦闘機の初飛行は、私の生まれる8年前の1939年でした。極めて運動性能の優れた戦闘機として米国を怖がらせたようです。最高時速518km/hで、機体が軽く航続距離も長かったようです。零戦は終戦までに10,000機以上も造られたようです。
https://www.google.co.jp/search…
戦後から19年が経った1964年(零戦から25年)、日本は米国から飛行機製造が許され、初めて製造した飛行機が、双発のターボプロップエンジン方式のワイエス・イレブン(YS-11)でした。座席数64席、航続距離は1,110km、巡航速度444 km/h のコミューター機として、延べ180台造られましたが、1971年に製造が打ち切られています。
聞くところによると、米国は日本に飛行機を造らせたくないという意図があったようです。理由は、航空自衛隊機は米国の戦闘機を購入し配備していますが、日本に配備された後、これら戦闘機は日本側で整備ならびに修理が行われています。適切にメンテナンスを行うには、当然、戦闘機の設計図が必要となります。日本は、米国から提供された戦闘機図面を良く理解し、整備を繰り返す中で、米国から引き渡された時よりも運動性能を始め様々な改良を加え、戦闘機の性能を大幅に向上させているようです。

こうした実態を見た米国は、正直日本に飛行機を造らせたくないと言うのが、その背景にあったようです。つまり、76年前の零戦の性能を想起させたのかも知れません。零戦から25年後にYS-11を、そしてYS-11から43年経って、日本はようやくオリジナルジェット機の完成を見たのが、三菱のMRJ(Mitsubishi Regional Jet:http://ja.wikipedia.org/wiki/MRJ)で、当初、3月25日に試験飛行が予定されていましたが、残念にも未経験による不具合が明らかとなり(ニュースから)、試験飛行は8月に延期されることになりました。

私は、決して戦争を望む者ではありませんが、日本の技術の粋を集めたジェット機が、世界の空を飛び回る姿を、早く見たいと思っています。だってそうでしょう、日本の技術力を証明する絶好の機会ですか。

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