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自由主義市場経済を推進していた国々が、中国に対して大きな過ち…

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1.はじめに

冷戦時代は、米国の自由主義陣営とソビエト連邦を中心とする社会主義陣営とに分かれていました。しかし、1989年のベルリンの壁の崩壊により、それまで12億人の自由主義市場経済が一気に40億人に膨れ上がることが予測されました。しかしこの時期の中国経済はまだ発展途上にあり、多くの自由主義市場経済国はあまり警戒していなかったように見受けられます。

中国は、1978年の改革開放政策に基づき、深圳を経済特別区に定め、外国資本の流入を許し、経済発展を急ぎました。その後は次々と経済特別区を指定し、中国自らの経済発展はもとより、先進諸国も自国の経済発展に中国を利用する形で推移するようになりました。この段階では、先進諸国は中国が社会主義国であることを忘れたかのように、世界経済の仲間として受け入れた感さえありました。
続きはECOLOGに寄稿しております。
自由主義市場経済を推進していた国々が、中国に対して大きな過ちをしたこと

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初めてのジョージア(トビリシ)を旅して

1.はじめに

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冒頭にジョージア(Georgia)でお世話になった方々に心からお礼を申し上げたいと思います。まず初日の9月26日、二日目の27日では、ジョージアの首都トビリシ(Tbilisi)在住の渡辺氏には空港までの出迎へと、トリビシ市内の主だった場所、観光地を含め案内いただきました。28,29,30日、そして10月2日までの5日間については、日本語&文化センター(Japan Language And culture center : JLACC)のニノ(CEOのNino)女史に観光企画を委託し、これに沿って28、29日の両日はミス・タマタ(Miss Tamta)女史よりに、東部地区ならびに北部地区の主要観光地のインストラクターをお願いいたしました。最終日の30日は、JLACCの共同代表である両ニノ(Nin)氏に栃ノ心宅の表敬訪問ならびにジョージアの料理体験教室などの機会を設けていただき、心に強く残る思い出つくりをしていただきました。
右も左もわからないジョージアでこれらの人々と出会わなかったら、思い出深かつ心に残る視察と観光は実現出来なかったと思われます。改めて、関係者の皆様に心から感謝する次第です。加えて、トリビシ在住の小生のEC-Maltaの同窓生であるレイラ・ガーダラズ(Lela Girdaladze)女史には、この旅行のきっかけと後押しをしていただけなければ、実現できなかった旅でした。予め良い所なので現地に来るようお誘いをいただいていました。違わぬ魅力あるジョージア共和国の一部ですが、視察・見学が実現できたことに心よりお礼申し上げます。

 

2.ジョージア視察・観光に至った背景と首都トビリシ概況

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ジョージア共和国の詳細については、こちらを参照されたい。さて、私がジョージアに興味を抱いたのは、マルタ共和国の英語学校(EC-Malta)で知り合ったレイラ・ガーダラズ(Lela Girdaladze)女史の情報に基づくものです。同国の地理的位置は、東経40〜47度、北緯41〜44度に位置しており、北はロシアとの国境に面しており、その間には大コーカサス山脈が連なっています。南はトルコ、アルメニアの山々に囲まれています。西側は黒海に面しています。一方東側は、カスピ海に面しているアゼルバイジャンが隣国に控えています。

ジョージア共和国の西部は、前述した通り黒海に面し、広大な平野が広がっており、土地は肥沃で農産物等の生産が盛んな農業地域となっています。首都トビリシ(Tbilisi)は、ジョージア共和国の真ん中より少し東寄りに位置した河岸段丘に広がっていまう。したがって首都トリビシは、アップダウンの厳しい地形を有し、都市の真ん中に比較的水量の豊富なメク・バリ(Mtkvari)川が流れています。人口は100万人をすこし超えるくらいで、都市への密集度が高く感じられました。少し経済に火が付き始めたということでしょうか、車の多さに驚きました。さすがに、国力を表してか中古車が多く走っていました。したがって、都市大気の品質は良くないと思われました。ちなみに、日本の緯度と比較すると秋田県、あるいは青森県といったところでしょうか。国全体の大きさは、北海道の面積に匹敵するそうです。夏は暑く、冬は寒く零下に達するそうです。昔は、首都トビリシにも雪が降ったようですが、今は降らないそうです。トビリシ市は、盆地にある町と言えます。

私達は9月26日から10月2日の7日間、ジョージアの首都トビリシに滞在し、この市基点に、主に東側に位置している教会(観光地)と、北側の山岳地帯の視察ならびに観光を行いました。書面とネット情報だけでは、実態を見誤ります。果たしてどのような国なのか、あらかじめEC-Malta同窓生の勧めと、先ずは肌で感じてみようとの好奇心から妻と一緒にこの地に訪れた次第です。トビリシ空港はこじんまりした空港で、観光地特有のあるいは大都市空港の訪問者の多い所でみられる、出口でのプラカードの数、また客引きの少ないのに安堵しました。この素朴な空港がいつまで続くか、地元の人々は溢れかえる観光客や若者の訪問を期待しているであろうな、と感想を持ちました。

 

3.10月26日、27の二日間観光

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私達が宿泊したのは、長期滞在型のアパートメント・ホテルのシタディーン(citadines APART・HOTEL)で、トビリシ市の中心街に当たる共和国広場(Republic Square)の近くの繁華な一角で、通りには面していませんでしたが、トビリシ市内観光・視察には非常に便利な所でした。近くに国会議事堂(革命広場)や博物館、また劇場や有名な教会などもあり、市内の主だった場所の観光ならびに視察は、短時間で終えることができました。この両日の見学ポイントはツミンバ・サメバ=三位一体=ジョージア正教会(ST. Trinity Cathedral)で、この国の教会建造物の基本がこの教会にあることを教わりました。

ワンダーランド(トリビシの旧市街地)や高台にあるナリカラ要塞(Narikara Fortress)、またイスラム系の人々が集まる温泉街(Abannotubani)などを散策、28日はトビリシから20数キロ北に離れたムツヘタ(Mtskheta)のスヴェティ・ツホヴェリ大聖堂(Svetiskihoveli Tadzari:ネット参照)を見学しました。前述した通り教会の作りはトリニティー・カセドラルに類似していました。見るもの珍しく、飽きない二日間を過ごすことができました。案内は、現地在住20年歴を有する日本人の渡辺さんで、食事(味)は日本人にあったものを食することができました。

 

4.9月28〜10月2日までの視察と見学ならびにイベント

4-1ワイナリー見学(9月28日)

この5日間の視察ならびに見学は、前述したJLACCにお願いした企画に沿ったもので、充実した視察と見学を行うことができました。目的地が比較的遠方にあるため、車による移動に長時間を有しました。9月29日は、ツアーコンダクターであるミス・タムタ(Tamta・Bokeria:日本留学経験があり、現在は独立し旅行会社を経営しているようです)女史の案内で、トビリシから東に約80km離れたシュフマン・ワイナリー(Shashiani Vazisubani)に向かいました。途中、アラベルディ修道院(11世紀に建造)の前にあるマツオニ・ハウス(Matsoni House)で、砕いたクルミと蜂蜜がトッピングされたヨーグルトを食しました。この店は、修道院に訪れる信者や観光客相手に作られた、いわゆる道の駅のようなものでした。次いで、目の前にある修道院を見学しました。

シェフマン・ワイナリーでは、昔らのワインの作り方(足でブドウを押しつぶす製法)と今日のワイン製造法の説明を受け、その後、試飲を含めた豪華な昼食を採りました。この場所は、山を抜けた後に開けた大草原の一角で、当該ワイナリーでは、アグリ・ツーリズムの味わいを満喫できました。

次いで、多くの観光客が訪れる観光ワイナリー・カハレバン(WINARY KHAREBAN)を訪問、ソ連の統治から使われている巨大な洞窟を、ワイセラーにした施設とイベント会場がありました。周辺には150haのぶどう園があり、毎年26,000本のワインが生産され、多くがフランスに持ち込まれ品評を受けた後、世界に出回っているそうです。その一部がこの巨大なワイセラーに収められており、見学者に向けた演出を交えた試飲や、実際にパン焼きやピンカリ(小籠包の大型のような食べ物)作り等の実体験など、イベントに参加し楽しみました。ちなみに、カハレンバンには、多くの中国人観光客が訪れていました。

この夜は、トビリシ市内で7時の夕食でしたが、極めて厳しい車の渋滞に合い、結局8時過ぎの夕食となりましたが、EC-Maltaの同窓生レイラ・ガーダラズ(Lela Girdaladze)女史にも参加していただき、楽しいひと時を過ごすことができました。

 

 

4-2 ミュージアムと博物館巡り&メテヒ教会見学、加えて温泉体験(9月30日)

この日はトビリシ市内観光巡りで、冒頭にナショナル・ギャラリー(Georgia NationalGallery)で「ピロスマニ」(ニノ・ピロスマナシュヴィリ)の絵を鑑賞しました。全体に丸みを帯びた絵で、色使いが独特な雰囲気を持つものでした。加えて、ほぼ隣接している「民族学博物館」に入館し、様々な民芸品を鑑賞、その後、旧市街区の中のレストラン(?)で昼食、そしてトビリシの創設者である乗馬したイベリア王の石像と「メヒテ教会」内を見学、丁度この日は教会内で結婚式が行われており、貴重な一コマを見ることができました。次いで、ジョージア国立民族博物館を訪問、ジョージアの東西における昔の住まい(古民家)を見学、お年を召された女性の学芸員の方から、熱心にジョージアの古民家について説明を受けました。

この後、イスラム寺院内や関連施設を見学、続いてイスラム街の一角にある温泉(硫黄泉)に入り一息をつきました。この日の夕食は、ケーブルカーでマッスミダ・公園(Mtatsminda park)にあるフニキューラ(Funicular)・レストランへ、街の夜景を見ながらの夕食は極めて印象深いものでした。帰りには、地下鉄に乗る機会を設けてもらったことは、良い体験でした。起伏の激しい地形からでしょう、地下鉄は相当に深い地下に造られており、エスカレータ長さと速さには驚かされました。

4-3 グレート・コーカサス連山を見渡すカズベキ(Kazbegi)へ

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9月30日、本日のメインイベントは、トビリシから北に直線で約130km離れたカズベキ、すなわちコーカサス山脈を望む旅でした。途中、湖畔の辺りに建つアナヌリ教会を見学した後、私達の車はヘアピンカーブの山道をひたすらに高みに向かって走りました。左側に望むキャニオンの雄大さ(高い山と深い谷)に感動を受け、加えて、この山にスキーリゾートがあることを知りワクワク感が湧いてきました。一方、この山岳道路は過去においてジョージアの忌まわしい歴史を持つもので、その意味する呼称として「十字架峠」や「軍事道路」と呼ばれている背景の説明を受けました。

私達は、カズベキ山(5,047m)を目の間に見ることができるルームス・ホテル(Rooms Hotel:およそ2,500mに位置)で昼食をとりました。大きなガラス窓から雪を頂いたカズベキ山と周辺の山々は絶景でした。私とっては、ソラマメの塩味餡子が挟まったパイがとても美味しく感じました。

食後、4輪駆動車でゲルゲティのツミンダ・サメバ教会(ジョージアでは最っも高いところにある教会)に向かいました。多くの参拝者がおり、道路整備を進めている様子を見ました。悪路故に、4輪駆動車でなければ教会には辿り着けません(徒歩で登る人もいました)。木々をなぎ倒しての開発は、環境配慮がなされたものではない状況でした。
カズベキ山を望む位置までには幾つかの絶景ポイント設けられていましたが、観光客によるゴミ問題が近い将来、大きな課題になると危惧を感じました。

 

5. 大関栃ノ心の故郷訪問 とプライベート料理教室(10月1日)

5-1 栃ノ心宅

この日は、大関栃ノ心氏の親御様のお家を訪問させていただきました。非常に暖かく迎えて頂いたことに、心から感謝申し上げたいと思います。1,600本分のワインを作られているお父上には、感服です。いつまでも健康でいるためには、身体を動かすことは必須ですし、それをぶどう栽培とワイン作りで補っている点は、見習うべきものと思いました。
お祖母様、大関栃ノ心氏のご両親、奥様ならびにお子様は勿論、ご兄弟の皆様のご健康とご多幸を、心からお祈り申し上げます。暖かい、おもてなしに感謝です。

 

5-2 プライベート・ジョージア料理教室

このイベントは、私共夫婦にとって、サプライズでした。挑戦させて頂いた料理は、いずれもジョージアの典型的な料理で「ほうれん草・プハリ」、「アチャルリ・ハチャプリ」(ラズリ)、「ヒンカリ」の3種でした。日頃、お店に出されて食べていた料理を、厨房に入り実体験させて頂いたことは、本当に良い体験であり思い出で、心憎い ‘おもてなし’ を感じました。しかも、ご指導いただいたシェフ(?)が、大統領の面前で料理する人と聞いて、大変光栄にでした。

 

 

6. おわりに

ジョージア共和国に関する事前情報は不十分のまま、この国に入りました。幸いにも、我が妻が、日本で関係者(渡辺様)と相当な情報交換をしていたお陰で、充実した1週間の旅となりました。

私のEC-Maltaでの同窓生レイラ・ガーダラズ(Lela Girdaladze)女史が、いい所だから一度遊びに来たらと声を掛けてくれたのが、後押しとなり妻と一緒に訪問することを決めました。旅は、新しい多くの様々な情報(人との知合い、その国の生活、文化、言語等々)の仕入れが可能です。しかし、訪問の後、好きになる国、敬遠する国、様々です。大半は、現地で良き思い出を如何に創り出すか、個人の努力だけでは難しいことです。これらを演出してくれる人々を、本来、ツアーコンダクターと言うのであれば、当該国の好き嫌いは、ツアーコンダクターの責任は極めて大きいと考えます。

私共は幸いネット知り合った渡辺氏、また、レイラ・ガーダラズ(Lela Girdaladze)女史から紹介を頂いた日本語&日本文化交流センター(Japan Language And Culture Center : JLACC)の存在を知ることで、とても有意義なジョージアの旅が実現できたました。改めて、関係諸氏に心から感謝する次第です。ジョージアは、正直、観光資源を豊富に持つ国であると受け止めました。観光立国としての認知度を高めることで、他国の人々との交流密度が高まれば、新たな産業の芽生えと発展のチャンスが期待できます。それには、トコロテン式観光案内ではなく、きめ細かなしっかりした好印象を与える「おもてなし」を感じさせるツアーガイドの育成が急務だと考えます。人材に加えて、個々の観光地の快適性の再構築が急がれます。特に、公衆トイレの充実や歩道ならびに車道道の改善、さらに排ガスの少ないバスやタクシー等、公共の乗り物の充実も急がれます。そして、女性ドラばーの育成も急がれます。女性の活用によって、優しい運転、事故の遭遇機会の減少、ギスギスした自動車運転環境の改善などが期待されます。そして、女性ドライバーが、ツアーガイドを兼務者することで、観光産業の大幅な改善と発展が期待できるのではないかと考えます。

 

なお課題を挙げれば、道路沿道の大気汚染(空気の品質悪化)は、無視しがたいほどに進んでいるように感じました。私は喘息持ちで、排ガスの臭いなどに敏感です。正直、自動車燃焼排ガスとそれに含まれる微小粉塵は、子供やお年寄りには厳しい状況と言えます。その意味で、排ガス汚染レベルの低減は急務で、そのためにはトビリシ市の環境大気監視が必須のように思われました。そして、その観測情報開示は、市民や車を運転する人々等の意識改善を促し、観光・環境都市トビリシの発展に貢献するものと思われます。

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海外に短期間滞在して感じた私の環境問題意識の変化

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1. はじめに

日本人の知識人(インテリゲンチャ)は、海外における活動において、自分と同じような知識バックグラウンド、あるいは他の豊富な知識人たちとのコミュニケーショを好む傾向があるように思われます。
特に欧米のリッチャーは環境問題について、自分なりの認識や考え方を持つことが、有効なコミュニケーションを取る上で必須であると評されている本、あるいは評論を読んだことがあります。知識人との接点を増やすことは、自分の見聞を高める上で大切であることは、否定するものではありません。私は、日本人として長年にわたり環境問題に携わって来た者として、前述のような考えを持った人達が欧米で得た情報や認識に基づき、日本で伝える内容が適切かつ賢明なものであるのか、少し疑問を持ちました。そこで、短い期間ですが、私が海外で生活した旅の間に受け止めた事柄について、以下に私信として紹介したいと思います。

 

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海外に短期間滞在して感じた私の環境問題意識の変化

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”インテグリティー”(高潔性)という言葉

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私の1966(昭和40)年は、大気の中に浮遊する粉じん中の重金属分析技術を、某先生の指導の下、身に着けることをスタートさせてました。当時の大気中の浮遊粉じん濃度は、空気1立法メートル(㎥)当り、1,000㎍(1㎎)を超えていました。想像するに、現在の中国やインドの大気汚染が、このような状況下にあると見られます。つまり、中国やインドの大気は、日本が深刻な公害問題を抱えていた、約50年前に相当する状態にあります。私が大気中に浮遊する粉じん中の重金属(主に、鉄、マンガン、ニッケル、銅、鉛、カドミウム、バナジウム、コバルト、そしてベリリウム等)を、初めて分析したのが、今から50年前の18歳の時でした。当時、日本は深刻な環境汚染状況にあり、それを「激甚公害」と呼んでいました。

 

右も左もよく分からない若者が、とてつもなく高価な分析機械装置を使って、前述の重金属分析を進めていました。私の分析結果(データ)を世間に正式に公表できる状況に至ったのは、指導を受け始めて3年が経過して、ようやく認められるようになったと記憶しています。でも、分析の応用力はまだなく、その後、粉じん試料のみならず、河川や港湾の低質、また土壌や生物試料など様々な分析検体への挑戦と各種分析機械装置を使用でいるようになって、ようやく自分の出した分析データの自身が持てるようになったというのが実際でした。25歳で独立し分析サービス会社をスタートさせ、その後は、ただ単なる分析屋ではなく、いろいろなフィールドにおける試料採取や調査を実施することで、フィールドにおける調査技術をも身に着けることになり、経済も右肩上がりの時代でしたから、発足後25年間は急激な右肩上がりの業績を残すことができました。

 

ご存知のように、日本のバブルが弾けたのは、1990年代の初頭で、その後も経済発展のイナーシャが働き、1996、7(平成6、7)年頃までは右肩上がりの事業実績を残すことができました。以後は、日本のGDPの推移と見事に比例した動きとなり、新たな事業領域の壁を突き破ることができませんでした。企業が成長発展するセオリーに追随できず、社会環境への適用力を徐々に失い。2016年4月に、分析サービス事業から身を引くことになりました。情報技術発展には、もちろん注目しこれに追随する努力も進めてきましたが、イノベーションとマーケティングの両輪を上手に回す自信を失い、事業を手放したというのが実際でした。

 

写真は、ノーベル賞の授賞式ではありませんが、自分の50年間の働きに対して、自らの利益のみならず業界全体の発展と質的向上に向けた努力も、惜しみなく推進してきた自分に、神から祝福を受け、それに答えている私の姿です。私は、”インテグリティー”(高潔性)という言葉に畏敬の念を抱いています。今では、地球に感謝で切る心と置き換え、インテグリティーという言葉を使わせていただいています。人類を救うには、地球の持続性を担保することが必須です。その危機が押し寄せている状況に対して、何を持って貢献できるか、Not only talk and think, we have to do actions.の精神をもって、残りの人生を使いたいと考えています。

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まもなくの「パリ協定」の発効を迎えて

現在の世界の問題を考えるに当たって、心得ておくべきキーワードについて、筆者の思いつくままにいくつか挙げてみたい。
その一つ目が、「ヴェストファーレン条約」に関連する世界秩序の問題である。中国や北朝鮮あるいは、現在の中東で起こっているイスラム過激派等による紛争などを考えると、1684年に「カトリックとプロテスタントによる30年に亘る宗教戦争に終止符が打たれ、条約締結国は相互の領土を尊重し内政への干渉を控えることが約束された」この条約に沿って、多くの国々は国家運営を進めているようだ。つまり秩序を重んじることが優先されなければ紛争はなくならない。ここで中国を上げたのは、一党独裁で、国内では徹底した情報統制が敷かれており、加えてウイグルやチベット地区では民族紛争が、そしてネパール国境などにおいては国境紛争が絶えない。また国際法上領有権の権利は無いことが、国際裁判で判決が下った南シナ海における中国の動き、さらに東シナ海においても日本に対する覇権的な動きは、世界秩序を乱す姿そのものである。
以下、詳しくは次のアドレスをクリックしてください。今後は、順次、キーワードに沿って、詳述しようと考えています。

http://os-lab.info/wp/wp-content/uploads/2016/09/894b723591cf6bdc01080a6299467b16.pdf

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日本人は、何故、食品を粗末にあつかうのか

食品リサイクル法は、2001(平成13)5月に施行された「食品循環資源の再生利用等の促進に関する法律」[1]で、年間100トン以上の食品廃棄物を排出する食品工場や、ホテル、ファーストフード、スーパーマーケット等の大手食品関連事業所に適用されるものです。この法律の施行目的は、2001年を起点に、2006(平成18)年までには年間排出量を20%削減させるものでした。法律の施行後5年が経過しても、食品廃棄物の排出削減目標は残念ながら達成されず、その現状に鑑み、2007(平成19)年には、食品リサイクル法の一部改正が行われました[2]。図-1には2001〜2005(平成17)年の事業系と家庭系の食品廃棄物量の推移を示しました。

 

 

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日本人は、何故、食品を粗末に扱うのか

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