地球環境問題

「人間社会に思いやりの心を持った日本」?

Compassion in Japan Human being society 密集状態で飼養される家畜と電車に押し込められた人々の状態:

家畜ように詰め込まれた人々

家畜ように詰め込まれた人々

私は、2015年9月2日17時01分に東北新幹線で東京駅に着き、同日17時16分発のJR東海道線「神津行き」の列車に乗り継ぎました。上野駅方面から来た電車ですので、乗客はいましたが、さほど混雑している状況ではありませんでした。しかし、以下に続く有楽町駅、新橋駅、品川駅、川崎駅からは、怒涛のごとく乗客が車両に流れ込んできて、瞬く間に身動きのできない状態になってしまいました。東京の中心地に勤められている方々は、こうした現象を毎朝、毎夕経験していると考えると、ぞっとする思いがこみ上げてきました。密集した身動きの取れない状態の時間は、居住地や勤め先の違いで、異なるでしょうが、少なくとも往復1〜2時間程度、こうした耐えがたい息の詰まるような環境にとじこめられていることになります。私はこの時、フィリップ・リンベリー、イザベル・オークショット著(野中香方子訳)の「ファーマゲドン」のコンパッション・イン・ザワールド・ファーミング(家畜たちの世界に思いやりを:Compassion in World Farming)の内容を想起しました。同書の中で、現在全世界で700億頭の家畜が飼養され、そうち2/3の470億頭は、身動きのできない密集状態の中で、病気の感染防止や育成促進のための抗生剤やホルモン剤が多く含まれている飼料を給餌され、消毒剤を降り掛けられたり、ワクチンの接種を受けたりと、まさに薬漬けの状態で飼養されているのが実態のようです。

 

通常、健全な飼養環境で育てられた家畜が、成牛、成豚、成鶏になるまでには、牛で約1年、豚では7、8カ月、鶏では3、4ヵ月は掛かると見られています。それが、前述した身動きのできない密集状態の環境条件下で、飼料を口から流し込まれるように育てられた牛、豚、鶏は、それぞれが健全な環境条件下で育成される成長期間に比べ、およそ1/2以下あるいはもっと短期間で、成牛、成豚、成鶏の体重に達し、この段階で肉市場に出荷されているのが実際です。こうした生産形態をとる大規模家畜農家(工場)では、生産性を上げるとは、牛、豚、鶏の成長期間の短縮を意味し、いうなれば家畜を不健康な条件で育て、早期に市場に出荷することだと思っているようです。

電車に押し込められた人々は、健康でしょうか?: どうでしょうか、朝夕の2回とはいえ、電車の中で身動きのできない密集状態に置かれる1日の延べの時間が1〜2時間、その間人々は見ず知らずの人々の身体の圧力をもろに受け、加えて体臭や香水を否が応でも嗅がされ、逃れたくともかなわない環境に留まることを強いられることになります。人間は、家畜と違ってその中でも、自我を通そうとする人がいます。例えば、本や新聞あるいはスマホを離さず見続ける人々達です。これらの人々がそうでない人々にさらなる窮屈感とストレスを感じさせています。こうした身動きものできない環境に押し込められる姿を見て、あるいは経験して、私たちは「思いやりを持った人間社会」いると言えるでしょうか。都市近郊に住む多くの方々は、朝夕の通勤ラッシュで極めて強いストレスを受けており、これが何年にも亘り続くとなると、人が本来持っている「思いやりの心」が、薄れ失われていることに恐れを感じます。

電車に押し込められた人々は、不健康な家畜飼養状態に匹敵: さて、こうした現象をもたらしている原因は、どこにあるのでしょうか。JRや私鉄が悪いのでしょうか。都市おいて、人々の集積がピークに達することを勘案し、ゆったりとした通勤、通学を可能にするには、鉄道車両や路線、またバスも同様にバスの全体量の増加と路線の拡大が必要になりますが、これは現実的でないように思います。電車やバスが溢れかえった都市を想像して見てください。人々の集積がピークに達する条件に応えられる対応をとっとならば、過剰な施設・整備となることは必至であり、現実的はありません。会社や役所など勤め先によっては時差出勤を取るなどして、こうした状況を避ける努力もしているところもあります。でも、実態は、朝夕のバス、電車の殺人的なラッシュに巻き込まれている生活の形が、常態化しているのが現実です。 家畜の密集飼養と異なるのは、密集化している電車の中で、伝染病予防のための薬が撒かれるわけではありませんが、人間が持つ「思いやりの心」などは、累積的に希薄になって行く恐れは、容易に想像がつくと思います。つまり、密集状態におかれた多くの人々は、知らず知らずに強いストレスを蓄積していることは、容易に想像できることです。したがって、人間社会が持っている「思いやりの心」も、こうした朝夕の通勤ラッシュで、密集環境に晒される人々の心には、育ちにくいと言わざるを得ません。都会の人々が、ギスギスして、人に優しく接しられない背景の一端は、こうした環境条件の中から醸成されてきたように、私は思えてなりません。

経済発展のバロメーターとして見られた時代と人への思いやり心の喪失: 戦後、通勤ラッシュの姿は、一時期は経済成長の証として、むしろ人々の心の発揚のために利用されていた時代があります。映画館の映画の合間にあったニュースで、あるいは昔のテレビニュースで紹介されていたのを思い出します。しかしこの姿は、戦後の日本人、その中でも特に都市における人々の心の面について、大きなリスク(人を押しのけてまでも、自分の居場所を取ろとする行為や、譲り合う精神など欠落)を醸成させてしまったようにも考えられます。2008年6月に起こった「秋葉原通り魔事件」を始め、都市部で人通りの多い場所における無差別な、人への殺傷事件の頻発は、都市に生きる人々の心のストレス、「人を思いやる心」が失せている一つの証しではないでしょうか。 知らず知らずに、私たちは身動きのできない密集状態(環境)に追いやられることで、「人を思いやる心」(Compassion)をなくし、他の人々を傷つけることに無頓着になってきているように感じるのは、私だけでしょうか。団塊世代(65歳〜70歳未満)の子供の頃は、比較的多くの人々が貧しかった。でも、近所の人々との交流は頻繁で、互いに助け合って(私の場合は助けらえる機会が多かったように記憶しています)生きていたことを思い出します。

「人間社会に思いやりの心を持った日本」への変革を): 殺伐とした都市が持つリスクの分散は、結論として適当サイズの都市の再構築、つまり分散型の街づくりが求められていると考えます。家畜のように密集形態で生活を強いる都市造りを避けるべきであり、それが「家畜にも思いやりのある世界を」(コンパッション・イン・ザワールド・ファーミング:Compassion in the World Farming)をヒントに、「人間社会に思いやりの心を持った日本」(Compassion in Japan Human being society)の新たな都市環境整備を期待したいと考えた背景です。 優しい交通網とは、乗車する人々にストレスを与えるものではないと考えます。東京は、緻密な交通網を持った、世界でも類まれな便益を持った都市と紹介されていますが、私は、以上縷々述べてきたとおり、東京は人に優しい都市とは言えないと思っています。世界一「安全」、「安心」と言われていますが、果たしてそうでしょうか。人々にとって課題の多い街であると、見ています。その意味で、都道府県それぞれが、主体性を持った街づくりが可能な、法整備に基づく構造改革が必要だと考えます。 中央集権国家の弊害を、早く取り除き、海外から優れた人々を呼び寄せることできる国家改造を期待したものです。 東京は、「人間虐待都市」: 東京は、私の目からは「人間虐待都市」と言っても過言ではないと、写っています。老人が住みにくい、働き盛りの中年は、通勤ストレスで疲れている。若者に希望と活力を与える都市とは、言えないと思います。 写真は、私が乗った電車で、横浜駅に到着し、殺人的な混雑の中から家畜のように流し出されるようにホーム降り立ちました。すぐには改札に向かって歩けず、思わずその場で大きな深呼吸をしてしまいした。

「人間社会に思いやりの心を持つ日本」(Compassion in Japan Human being society)を再構築すべき時代が到来したと思いました。折しも、私たちの地球は、温暖化の進展によりダメージを受け始めています。また、向こう30年以内に首都直下型の地震など、大災害に見舞われる確率も極めて大であると喧伝されています。日本列島を如何に分散型の安全、安心の国家にするか、私は急務だと思っています。これからも、こうしたメッセージに加え、自らも「思いやりのある日本の実現」に向けて、行動を起こしていきたいと考えています。

(さらに…)

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地球温暖化を食糧生産(主に家畜の飼養)の観点から見た景色

地球温暖化を食糧生産(主に家畜の飼養)の観点から見た景色:地球上に飼養されている家畜の数は700億頭で、このうち2/3は工場式畜産によると紹介されています[1]。つまり、470億頭はストレスを抱える環境で飼養されています。動物もそうですが、過酷な環境で育成されたものを口にすることは、人にとっても決して受け入れるべき食べ物ではないということが、同書籍で紹介されています。「ファーマゲドン」の副題には、「安い肉の本当のコスト」は、例えば「ハンバーガーの真のコストは1万円」と書籍の帯には記されています。

人間の旺盛な食欲が、過剰の食物生産システムを造りだし、大気汚染、土壌汚染、水質汚濁、はたまた温暖化を加速する要因となっていることは意外と知られていません。家畜700億頭は、人間の人口が2015年現在72、3億人と考えると、その約10倍に匹敵します。これら家畜の飼料は、多くが大豆やトウモロコシで、これらは人間の食糧源であることは言うまでもありません。人間一人が生きていく食物量は、穀物で換算して180㎏/年と言われています[2]。ちなみに2012年の世界の穀物生産量は24億tで、これを人口71億人(2012年)で除すと、340㎏/人となります。つまり、今日では全世界の人々に十分に行き渡るほどの食糧生産を実現していることになります。ところが、実際は8億数千万人の人々が飢えているのが現状です。

一方、先進国では、現在の家畜の飼養方法に大きな疑問を投げかけています。家畜における工業式畜産とは密集形態による生産方式を言います。つまり家畜が身動きのできない狭い空間に押し込められ、飼料を口から流し込まれます。家畜の密集リスク回避をするために、多量の抗生物質が使用されます。また、ペニシリンなど予防接種が当たり前に行われ、言い換えれば薬漬けの状態で飼養されていることになります。例えば一般的に、鶏は成鶏になるまでには約4、5月(120日〜150日)掛かりますが、工場式畜産では、およそ7週間(50日)で肉として出荷に耐える目標体重に達しているのが現状です。

ここで言いたいことは、私たちは愛玩動物である犬、猫に関する思いやり(Compassion:コンパッション)については関心が高いのですが、日ごろ口にしている牛、豚、鶏等の家畜に対する「思いやり」に欠けていると指摘している団体があります。それが“コンパッション・イン・ワールド・ファーミング(Compassion in world faming:世界の家畜に思いやりを)です。ストレスを掛けられ飼養された家畜の肉などの食材と、人間の健康状態とに大きな相関があると指摘しています。密集状態の環境で抗生物質や様々な薬物が投入された家畜の肉は不健康で、この肉を食する人間も不健康になるというものです。先進国では有り余る不健康な食材を口にする人々の多くは、身体的、精神的不都合を抱えている可能性が高いと説明されています。

私が50年前に公害問題を手掛けたころに、ベストセラーになった書籍に、レイチェル・カーソン著「沈黙の春」{1962年、日本語訳は1964年に『生と死の妙薬―自然均衡の破壊者〈科学薬品〉』}がありました。今日、日本の農業における農薬の使用量は世界一と言われています。幸いにも、農薬の使用タイミングや量の規制、管理が行き届き、農作物のへの残留農薬の量は一頃よりは大幅に削減されたと言われています。しかし、厳密なセンサスが行われその実態を調査し、国民に報告される形とはなっていないのが実態です。今のところ、農薬による土壌汚染、河川や地下水の水質汚濁などの厳しい汚染が明らかとなったとされる報告ありません。

家畜の生産についても、欧米のような密集飼養状況と比較すると、それほどまで厳しい状況にはないのかも知れませんが、生産性を上げコスト競争力を考慮すると、欧米に類した密集型家畜生産システムの方向を選択する動きは見られます。日本における家畜による環境汚染問題は、悪臭、水質汚染(地下水を含む)、病害虫の発生など、地域によっては深刻な状況にあることは間違いありません。

冒頭で紹介した通り、全世界で700億頭の家畜が飼養され、その2/3が健全な飼養状況にないことの指摘は、家畜そのものの不健康さに加えて、環境汚染問題も極めて深刻であることは言うまでもありません。いわゆる「畜産公害」に加えて、排せつ物による温暖化物質の大気への放出も、見過ごせないレベルであることは容易に理解できます。炭酸ガス(CO2)はもとより、メタン(CH4)や亜酸化窒素(N2O)の排出量は、化石燃料の燃焼によるCO2を凌駕しないまでも、相当に大量である点は見過ごせないと考えます。その意味で、温室効果ガスの排出抑制の観点からの、家畜飼養のあり方を考える時代が到来したとも言えます。ちなみに、日本における家畜からの温室効果ガス排出量は1,210万t-CO2(2010年)で、総量13億 5700 万トン CO2の1%に相当すると見積もられています[3]。家畜頭数は、全部で3億2,160万頭に達しますが、このうち鶏が95.8%を占めており、豚は3%の954万頭、牛(乳牛、肉牛)は1.2%の396万頭となっています。

フィリップ・リンベリー、イザベル・オークショット著「ファーマゲドン」に記載されている内容には、人間が食糧とする家畜のみならず、野菜なども含め、密集形態による栽培・育成を可能な限り避け、動植物に対して“思いやりの心”を持った生産ならびに栽培手法を進めなければ、人間の健康に跳ね返っていくとされています。「畜産の集約化は、食べ物の栄養価を破壊しているも同然である」(p.213)、「肥満動物の肉を食べれば、肥満になります」(p.214)など。つまり工業型畜産では、家畜を太らせるように品種改良を行い、ただ檻の中でひたすら餌を食べ続ける。当然、脂肪分が多くなり、健全とは言えない肉として世に出回ることになります。

一方、700億頭もの家畜から排せつされる糞尿は、メタンや亜酸化窒素といった温暖化物質を大気中に放出します。こうして見ると、農業分野における健康な食糧生産に加え、温暖化対策をも考慮した農産物の生産も、重要であることが理解できると思います。食糧生産に思いやり(Compassion)を持った動きは、決して最近に起こった考えではなく、1960年代にはこうした活動が開始されています。環境問題は、巡り巡って私たちに跳ね返ってくるものです。こうした取り組みの必要性について、改めて強く実感した次第です。

[1] フィリップ・リンベリー、イザベル・オークショット著「ファーマゲドン」p19より

[2] http://www.chikyumura.org/environmental/earth_problem/food_crisis.html

[3]http://www.maff.go.jp/j/council/seisaku/kikaku/goudou/16/pdf/doc1.pdf

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「Facebookは、政治や政策の話もありだと考えます」

以下の作文は、日本最大のNGO≒“ロータリークラブ”を、サブナショナルと位置付け、私の思いを作文したものです。

ファイスブックには、政治や政策に絡む問題について、記述される方はまれですね。美味しそうな食べ物や楽しい話題、そして、自分の現在いる場所の開示、さらに趣味について、人によっては自分の行っている事業のことなどを紹介したりしています。しかし何故か、主義主張を記述される方は少ないようです。触れたくないのは分かりますが、SNS(ソーシャルネットワークシステム)の発達は、人の主義主張ができる効果的なサイトとして活かされるべきだと私は考えますが、こうした考え方を受け入れる人は少ないのでしょうね。

一方で、SNSの一つであるYou Tubeは、露骨に主義主張のやり取りを映像化、あるいはインパクトの強い文字配信が積極的に行われています。NHKニュースや、朝日放送の報道ステーションでは伝えてくれない情報(ただし、どこまで信じられるか、自分で検証が必要なケースも考えられる)などがあり、ついぞ見入ってしまうものもあります。個人の主義主張には、多様性を受け入れる必要性が前提になければなりません。好き嫌いで判断したり、“ロジックとして納得できるから、その考えにも私は賛成である”と思ったり、“特定の個人や国家に対して偏見を持って見ているので私は反対”、といったように、主義主張に対する反応には当然、多様性があって当たり前だと私は考えています。現在のFacebookは、そんなに肩肘張らないで、“さあ、楽しくやろうぜ”と言った点から、広く受け入れられているのかも知れません。

ロータリークラブのコミュニケーション

かつて、私がロータリークラブに所属していた頃、ゾーンや地区、さらに個別クラブ間を横断したコミュニケーションツールとして、“ロータリーインターネット”が立ち上がったことがありました。ロータリーインターナショナル(RI)の方針に対する賛否や、それぞれの言い分が吐露されたり、「ロータリー憲章」の解釈を巡って議論が炎上したり、また個別クラブのあり方や存立に関する議論などが、結構頻繁に、かつ熱いやり取りがあった時代がありました。この時代には会費がありましたので、総会も開かれています。

それが、Facebookの登場により、全く趣の変わった情報交換が展開されるようになりました。言葉でやり取りするより、映像の方が何倍も伝えたいことが明確にできるし、それまでの文字による情報交換から、スムーズに映像(静止画のみならず最近は動画も増えています)によるコミュニケーションに移って行ったというのが実際でしょうか。Facebookへの移行は当然の成り行きと言うのでしょうか。多くの人がスムーズに受け入れた結果の、コミュニケーションスタイルとなったようです。

私も、ロータリアンの時代に、“ロータリーは政治や政策については語らない。そうしたボランタリー組織である”と教えられた記憶があります。何も言わず行動している姿を見せて、これが「ロータリー精神」だと言った形のメッセージをよく目にしました。でも、ボランタリーな活動そのものを効果的に進められるには、やはり政治や政策との太い関わりの中で成立していることを、皆さんは語らない。学校の生徒を動かすには、教育委員会との関わりは欠かせません。社会の中の諸活動には、それぞれに関係する行政組織との良好な関係構築は不可欠です。

ロータリーの開発途上国支援

開発途上国の支援についても同様です。相手国政府を無視した支援は考えられません。こうした関わりの中で、何故か大きな矛盾や課題について、表に出すことを避けてきたように、私は思っています。より多くの人に現実を知ってもらう。その意味で、ロータリークラブは、沢山の問題事例に関する情報を持っている組織であると考えています。言わば、「情報の宝の山」を抱えています。「情報の宝の山」としたのは、ボランティア活動における様々な問題点や課題につきあった経験が豊富にあるということ。これが開示されれば、問題解決のための資産に生まれ変わると見たからです。

例えば開発途上国で、飲み水確保のために、未就学児童が片道2時間も掛けて水汲みをしている。こうした子供達に教育の機会をと考え、井戸掘りの支援事業を行ったとします。めでたく井戸を掘り当て、未就学児童の過酷な水汲み労働は取り除くことができた。さて、この子はすぐさま学校に通い、テキストを前に勉強に付くことができたのでしょうか。

ロータリーのプロパガンダ誌には、住民の喜ぶ写真が紹介され、これが支援の喜びと言った姿を良く目にしました。しかしその後、子供たちはどうなったのか、フォローした情報を目にすることは少なかったように思います。水汲みの重労働はなくなったが、学校には行けずに相変わらず家事の手伝いで1日を過ごしているかも知れない。こうした支援は、課題の一断片を捉え、その断片の解決が支援目的となっているケースが多いようです。

開発途上国の多くは、個別の問題処理では根本的な課題解決には向かいません。これらは政府レベルで、行政単位レベルで、当該国の実態を把握する必要があります。村やコミュニティーへの支援だけでは、まさに課題の断片の処理に過ぎません。そういう意味で、開発途上国支援は、国対国、地方行政対地方行政、そして他のNGOやロータリークラブが関与する形である必要があります。問題の根本に関わる必要があり、そのためには支援プロジェクト単位で組織化が不可欠です。

しっかりしたポリオ支援プログラムと中途半端な支援

ロータリーのポリオ支援が、その良いケースでしょう。「ポリオの撲滅運動」は、国連のWHO(世界保健機関)やUNISEF(国際連合児童基金)、米国疾病予防管理センター(CDC)、そしてロータリーが関わっています。綿密に練られた計画に基づき、開発途上国に入って、関係者(医者や看護師、多くのボランティア)によって運営されます。ポリオのワクチンは温度管理が重要で、そのための施設が必要となります。しっかりした建物の中での管理か、また戸外のテントでの管理か、その場合は仮設電源が必要となります。こうしたプロジェクトを成功させるために、実に多くの人々が関与し、そしてお金が動きます。ロータリアンは医者であろう協力者であろうと、当然ボランティアです。ポリオの撲滅運動に歴史があり、プログラムもしっかりしている。しかし、他のプロジェクトはどうでしょうか。事前調査やフィージビリティスタディーなど、推進プログラムがあいまいであることが多い。したがって、支援の在り方も前述した通り断片的になってしまい、根本的な課題に触れずじまいで、中途半端な支援に終わってしまうのが多いのではないでしょうか。こうした、問題点や課題を表に出し、支援の在り方について、その実態をより多くの人々に知っていただく必要があると思います。

開発途上国支援にはプロフェッショナルが必要

日本人と外国人、先ず、考え方が根本的に異なることを前提に考える必要があります。私たちの価値観で物を見ると、見誤ることが多々あります。したがって、開発途上国に向けた支援あるいは援助は、やはりその道のプロフェッショナルが必要だと考えます。先ず、ハードネゴシエーションは当たり前ですし、カウンターパートが責任を持って受け入れるには、それなりに相手国の政府や地方政府とのコネクションが必要不可欠だと考えます。まれにその支援が、すでに日本から送り込まれているJICA(国際協力機構)の青年海外協力隊と、コラボレーションできた話も聞いたことがあります。

ロータリー国際支援は、ポリオ支援を除いて、クラブ単位で進められる海外支援テーマを、長期に継続することをしない暗黙の了解があるようです。つまり、限定的(断片的)なテーマを対象に単年度で終わり、その代りに幅広く多くの断片的テーマの実績を作ろうとしているのが実際です。日本の青年海外協力隊とのコラボレーションで、思いのほか上手く行った支援テーマがあったとしても、青年海外協力隊の実態を知ろうとしないのがロータリアンです。例え知っても、それ以上のことはロータリーの海外支援コンセプトと異なるからか、日本国政府が送り出している青年海外協力隊については、深く知ろうとする動きは見られません。国家が進めている財産とのコラボレーションを積極的に考えようとしないロータリーは、おのずと視野は広がるとは思われません。青年海外協力隊は日本のODAの一つですが、協力隊員らの多くは純真に開発途上国の支援をしたい、という思いでその世界に飛び込んでいます。しかし、現地に派遣され、その現地条件の劣悪さ、あるいはカウンターパートの理解不足や資金的な不足等々により、自分の任務が遂行できなくとも、彼らの意見(提案や新たな具申、予算要求等)や苦情をJICAにフィードバックもできないのが実態のようです。ロータリークラブと出会って、彼らのミッションが良好に続けられるケースはごくまれですが、こうした場に遭遇する青年海外協力隊員は幸せです。

かつてのODAと箱物援助

日本は、かつて米国に次ぐ世界第2位のODA大国として、多額の援助を進めてきた実績がありますが、いずれも「箱物」(橋や道路、あるいは空港や発電所等)と言われるものの支援が多く、施設の完成後はその維持費の高さに、多くの施設は継続使用されず、初期目的を果たさないままに朽ちてしまったものもあるようです。皆さん、ご存知でしたか、初期の北京空港は日本のODAでできたものです。中国政府は、この空港の株式を上海証券取引所に上場すると言う、ODA始まって以来の珍事が発生。さらに新空港開港に当たって、本施設が日本のODAで実現できたものと言った記録が、施設のどこにも示されなかったので、日本の外務省関係者と、中国政府との厳しいやり取りがあったようです。

それはともかく、日本が高度経済成長の絶頂期までは、少なくとも潤沢なODA予算外が計上され、前述した箱物をせっせと作ってきたのが実態です。しかも、これらを請け負うコンサルタントの仲間内では、予算の半分はアンダーザテーブル(under-the-table)で消えるもので、これがうまくやれないコンサルタント会社は仕事ができなとも言われていた時代がありました。こうした問題は、建設コンサルタントのみならずAMDA(国境なき医師団)が絡む案件でもあったようで、日本のODAが如何に主体性のない支援を行っていたか、ご理解いただけると思います。プロジェクトの成功のための必要悪と言うのは、あまりにも国民をばかにしたやり方であり、あきれるばかりです。

「Japan as No.1」の宴が終わり、ODA予算は縮小され、高度成長期のような出来事は改善されてきたと言われていますが、せっかく施設整備を行い、その施設の運用技術を現地技術者に移転しても、そのスキルが民間会社に高く売れるので転職してしまうと言ったケースは、決して「まれ」な現象ではありません。日本の高度成長期までの開発途上国への援助は、前述したような状況があったようですが、ODA資金は言うまでもなく国民の税金です。以上のような状況が皆さんに公開されていたとした場合、皆さんは、どのような行動を起こすでしょうか。物事には表と裏がある、ある程度仕方がないと思われるでしょうか。

戦後、日本の繁栄は、同じように海外からの資金や技術援助で実現されたものです。日本は1970年代初頭には、海外からの借金を終え、その後ドナー(援助)国に変わりました。援助を受けて繁栄を得た日本ですから、今度は同じように開発途上国の繁栄を支援する。これは当然のことだと思いますし、それができている日本を誇りに思います。しかし、どうでしょうか。そのように多額の税金を海外援助に向け、相手国の繁栄を期待した。でも、そうした国々から、日本への感謝の声は私達に届いているでしょうか。私はそうは思われません。お隣り韓国、そして中国には日本から多額に資金援助のみならず、技術移転も行われてきました。そして、今日の繁栄へと結びついていると、そう私は理解しています。それが過去の戦争を持ち出し、戦時における理不尽な行為に対して謝れと、何度も突き付けられる実態は、日本のODAが、日本国家のために活かされなかったことの証のように、私は思います。故に、ボランタリーであろうと、国の支援ならなおさらです。支援行為で交わされる実態、かっこよく見える表ではない、裏の事実もそれなりに公開してしかるべきだと、私は考えます。コインの表を伝える人は、華々しくその成果を語れますが、実は、その裏にはなかなか表現し辛い事象があった。こうしたコインの裏も知っておく必要があると、私は考えます。皆さん、どう思われますか。

青年海外協力隊と次代の人材育成について

青年海外協力隊による支援は、今も続けられています。残念ながら、彼らの援助スタイルは今日も変わっていません。自らのスキル(個人属性に依存するのが一般的)を精一杯使って、開発途上国に役立ちたい。心根は見上げたものとして、彼らにエールを送りたい。しかし、日本の外務省ならびにその下部組織であるJICAは、何かが分かっていない。それは、彼らを人材として育成するプログラムを用意していないことであると、私は見ています。

最も教えてもらいたい点は、マネジメントスキルです。つまり、「人」「物」「金」「情報」(技術)、「環境」の経営資源をどう使うと、自分に与えられたミッションが実現できるか。事業の計画、これに経営資源を配分、支援プロジェクトの進行途中で修正の必要があれば、必要に応じる。一人の青年海外協力隊員が事業を成すためのスキル(≒「マネジメントスキル」)を身に着けさせることです。従来の箱物援助に掛かる資金に比べれば安いものです。毎年の青年海外協力隊員の合格者数が、仮に2000人とします。同隊員を国際ビジネスマンに育てるために1億円を使うと、合計2000億円。2000人の国際人を育てると考えたら、決して高くはないと考えます。

日本政府が、世界で活躍する時、彼らがどのようにふるまうかで、日本のポジションが決まる。国連の常任理事国入りは、人材の育成あるのみだと考えます。徹底した国際ビジネスマン養成の場が、青年海外協力隊員に用意される。そうなると日本が変われると考えます。

現実はどうでしょうか、多くの青年海外協力隊員が帰国して、一般企業に就職できない理由の一つに、「浦島太郎現象」があります。経済社会と隔絶された環境に長期間放置されれば、経済観念は生まれないし、帰国しても一般社会になじめないのは当然の帰結と考えます。

いや、いかなる劣悪な環境でも衛星を使って通信はできます。中央とのコミュケーションは勿論、横の交流も容易です。ネット社会の青年海外協力隊員を、次代を担う国家の人材資源と考えるのであれば、これまでのプログラムの在り方は、間違っているように考えます。国に応じた優れた実践向けのODAコンサルタントを育てると言う視点もありだと考えます。マネジメントの勉強と語学(英語と現地語はネイティブスピーカークラスに)は必須ですし、国を代表しているというマインド教育も厳しく植え付けることが欠かせないと考えます。

以上のことが行われれば、ロータリークラブのような国際NGOが進めるボランタリーなプログラムもリードできますし、そうすることで、日本国ならびに日本人に対する多くのファン国や、人々を生み出すことが可能だと考えます。言うなれば、近い将来に開発途上国に向けた、武器を持たない平和部隊の構築と編成が可能となります。

青年海外協力隊には、日本のこの先の生き方を決める存在になってほしいものです。

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「公害を垂れ流して経済大国になった中国と富の占有率の拡大」

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上の図は、中国の一人当たりのGDPの推移を示したものです。21世紀に入って、中国は急速な勢いで経済発展をしていますが、これの意味するところは、言うまでもなく「エネルギー」と「資源の多消費」にともなうものです。
一人当たりのGDP(GDP/Capita)が示すように、経済的豊かさが飛躍的に伸びている一方で、中国は富の占有率(所得上位10%人口の資産が総資産に占める割合(%)※)の格差も広がっています。中国の富の占有率は、15年前の2000年には49%と、富の再分配が上手く行っていたと言えます。しかし、2014年には64%と跳ね上がっています。富の占有率の高い国は、他にも多く存在しますが、14年間と言う短い期間で富の占有率が進んだ国は、中国において他はないと紹介されています。

中国における富の占有率格差の拡大は、主要産業である石油、鉄鋼、化学、電力、繊維、銀行と言った国有企業が、21世紀に入って、相次ぎ国際証券取引所に上場したことが、その背景にあります。例えば、中国石油化工有限公司(中国三大石油会社の一つ)は2000年に香港、上海、ロンドン、ニュヨークの証券取引所に上場しています。宝山鋼鉄(山崎豊子氏の小説「大地の子」の舞台となった宝山製鉄所は、日本の支援で誕生した製鉄所です)は2002年に上海証券取引所に上場しています。多くの国有企業が上場したことによって、当該企業は多額の創業者利益を手中にしました。そして、これら企業の幹部(上級国家公務員や共産党幹部)は、自らの報酬額をつり上げ多額のお金を手にするようになり、大金持ちとなりました。これが富の占有率を大きく引き上げた原因です。

これら企業の経営者・幹部が、企業経営において社会的責任(CSR)感を持ち合わせていたならば、創業者利益は、それぞれの企業から排出される廃棄物(環境汚染物質)を適切に処理(公害防止対策)するために使われただろうと考えます。しかし、創業者利益は、企業経営者ならびに幹部の懐に向かいました。これが中国の環境汚染を深刻かつ長期化させている原因であると、私は考えています。つまり、富の占有率が高まったことは、富の再配分を誤ったことになります。中国は、2009年には日本を抜き世界第2位の経済大国となりましたが、環境問題は日本の1950、60年代頃と同じで、国土を汚染させ経済大国にのし上がった国と言えます。見方を変えると、日本の経験から極めて潜在的に大きな負の財産を抱えたことになります。

ご存知のように、日本も経済発展の過程で、最大の貿易相手国である米国と、1960年代後半に繊維分野での貿易摩擦を生じさせました。米国は、具体的に国名を上げませんでしたが「公害を垂れ流し続ける国が、市場経済に参入することは許されない」と、日本を間接的にけん制した経緯があります。日本の良いところは、このことを真摯に受け止め、急きょ政策転換を図ったことです。これが世に言われます1970(昭和45)年に開催された「公害国会」で、その後、公害防止に専念することになりました。残念ながら、今の中国に“モノを申せる”国家はなく、中国はやりたい放題です。大気汚染、水質汚染、土壌汚染、地盤沈下、騒音、振動、悪臭、日本ではこれらを「典型7公害」と呼んでいましたが、現在の中国はいずれの公害も深刻です。何故、環境汚染は改善されないのか、理由は以上縷々申し上げました通り、富の占有率の拡大、すなわち多くのリーダー達が、拝金主義に走ったからだと言うことができます。中国は日本が犯した轍を踏んでいます。日本は、米国から正されました。しかし、中国に公然と“モノを申せない”日本が情けない。私はそう感じています。なお、日本は富の再分配が最も進んだ国の一つで、2014年現在で占有率は48.5%です。世界一位はベルギーで、47.2%となっています。見方を変えれば、日本はベルギーとともに何処の国よりも社会主義的な国と言えます(※:「低欲望社会」大前研一著 p23、24参照)。

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シーシェパードが制作したドキュメンタリー「ザ・コーヴ」は、動…

シーシェパードが制作したドキュメンタリー「ザ・コーヴ」は、動物虐待に当たるのか。

2015年5月13日の日経朝刊の「春秋」に、 和歌山県太地町のイルカ漁を描いた、米国のアカデミー賞のドキュメンタリー部門でオスカーを取った「ザ・コーヴ」の紹介から、日本の水族館のイルカは太地町の漁師が水族館用に捕獲したものと知った世界動物園水族館協会(WAZA)が、日本の動物園水族館協会(JAZA)の資格を停止したとの紹介がありました。太地町からのイルカの調達を止めないと、他の動物について海外から提供が受けられなくなるというものです。

イギリスの動物福祉団体“コンパッション・イン・ワールド・ファーミング(Compassion in World Farming:CIWF)”という組織は、家畜の飼養や魚などの養殖において、動物福祉を考慮した対応が必要であるとの考えを世界に発信しています(出展:ファーマゲドンより)。現在は、牛や豚、また鶏などの家畜は、バタリーケージやソウ・ストールと言った身動きのできない檻の中で、しかも極めて密集した状態で飼養されているケースが多く、加えて家畜に与えられる餌も遺伝子組み換え作物(GMO)であるトウモロコシや大豆の飼料に、育成を速めるための栄養剤やホルモン剤などが混ぜられ、病気の予防のために抗生物質や、ワクチン注射などが定期的に行われているようです。身動きのできない空間で餌を流し込まれるように食べさせられ、出荷を早めるために育成期間の短縮が驚異的に図られているようです。例えば、A4判1ページ相当の空間しかないバタリーケージに押し込められた鶏は、羽ばたきもできず、ストレスから隣の鶏を突っつき怪我をさせることから、嘴が切られています。その切り方も粗野で、切られる嘴の格好はまちまちだということです。こうした状態の密集型飼養は、動物に対して多大なストレスを与え、その状態で造られた肉は不健康な肉であり、人間にとって良くない食べ物となっていると紹介されています。強制的に早期に太らせるホルモン剤は、当然、肉に残留しており、それを食べる人間もその影響を受けると言うものです。

先進国は勿論、開発途上国でも最近はファーストフード店が増えてきています。こうしたチェーン店は、密集型畜産(「工業型農業」という)で量産される安価な肉を仕入れ、これらを使った様々なメニューが用意され、私たちの口に入ります。特に、ハンバーグやチキンナゲットと言った食べ物を食べ続けると、肥満になるとも言われています。

要するに、家畜やその他動物を工業型農業手法で育てることは、動物にストレスを与え、加えて、病気の感染予防のために抗生物質が入った飼料が与えられています。家畜の主な食糧であるトウモロコシや大豆も、遺伝子組換えを行った種子(GM種子)を使って育てられたもので、これら遺伝子組み換えによる生産物(GMO)は、直接・間接に膨大なエネルギーと水を使って育てられたものと言えます。ここで言うエネルギーとは、GM種子の開発行為には、直接・間接に膨大なエネルギーが消費されています。つまりエネルギーの多消費により生まれたものと言えます。そして、圃場では、従来の作物(トウモロコシ、大豆等)に使用した農薬や殺虫剤とは、比較にならない強力な農薬ならびに殺虫剤が使われていると言われています。これは大地に化学物質を大量にまく結果となり、土へのストレスは極めて大きなものとなり、土壌、水質、大気汚染のもととなっています

こうした中で、今日ではすでにその強力な農薬や殺虫剤に対して耐性を持つ病害虫が生まれてきており、GMOのさらなる改良が必要になっていているようです。例えば、トウモロコシを枯らす根切り虫を寄せ付けないGM種子が造られ、当初は効果があったようですが、既にそのGN種子に耐性を持った根切り虫が現れてきているようです。笑えない話ですが、映画“メインブラック”のような、さらに耐性をもった病害虫や細菌類の出現は、当然、考えられることです。こうした工業型農業はエネルギー多消費型であり、極めて環境負荷の高いやり方といえます。

アカデミー賞のドキュメンタリー映画「ザ・コーヴ」の話から拡散してしまいましたが、この「工業型農業」が最も盛んな国は米国です。その技術が南米のブラジルやアルゼンチン、そして中国等でも受け入れられ、動物虐待と言える生産形態が取られている事実を鑑みると、米国に本部を置く「シーシェパード」が強引ともいえる手法で、「ザ・コーヴ」の対象とした和歌山県大地町のイルカ漁を、一方的に非難することができるでしょうか。

自分たちの足元に、動物虐待と言える家畜飼養や養殖が行われている事実を棚上げし、日本の動物園水族館協会(JAZA)の資格を停止したとは。何とも物事の公平さに欠ける措置のように、私は感じてなりません。イヌイットのアザラシ猟などは、自分たちが食べるものだけで乱獲をしない。日本のイルカ漁も、昔からの伝統を守り乱獲している訳ではありません。

私は、コンパッション・イン・ワールド・ファーミングの活動は、とても素晴らしいと感じました。工業型農業が最も進んでいるのが米国や南米、ヨーロッパ、あるいはオーストラリアもそうかも知れません。シーシェパードは、米国の組織、設立者はグリーンピースを脱会したカナダ人であると紹介されていました。

欧米人は、木を見て森を見ない人種が多いのか、WAZAあるいはシーシェパードの連中に、工業型農業のあり様について、どう思われるか聞いてみたいものです。『貴方達は、牛、豚、鶏の肉、さらに養殖魚あるいはエビ等を食べない、完全なベジタリアン(vegetarian)なのですか』と。今、世界で起こっている地球環境に負荷を与えている国はどこでしょうか。シーシェパードの面々が、ISO 26000に則った活動に異存がないと言うならば、行動を起こす対象が間違っているのではないでしょうか。行動に対する説明責任(accountability)を持っているというのなら? 矛盾した行動は社会を混乱に陥れるだけで、無責任と言わざるを得ません。日本にもシーシェパードの支部があるようですが、如何なものでしょうか?

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PM2.5によって良性腫瘍に罹った娘を抱える母の思い

中国の元CCTV(中国中央電子台)人気キャスタ-柴静(Chai Jing)が、”アンダー・ザ・ドーム”(中国版TED)で、自分の娘がPM2.5により良性の腫瘍に罹った「」ことから、中国のPM2.5汚染の実態を、自らの足で取材し、制作したYouTubeを題材に、プレゼンテーションを行ったところ、このYouTubが全世界で1億回もクリックされるという炎上を起こした。2012年12月に中国北京の米国大使館が、PM2.5のモニタリングデータを公開、これをはるかにしのぐ、ニュースとして世界を駆け巡った。 柴静(Chai Jing):アンダー・ザ・ドームで、PM2.5について、プレゼンテーションを行う!「柴静のPM2.5プレゼン150307

柴静(Chai Jing)

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